第8話:マスター・キーの紛失
「……消してやる。こんなもの、全部消してやる」
現実世界から弾き出され、ドットの塊へと変わりつつある俺は、震える指でスマホの管理画面を叩いた。
このブログさえ消去(デリート)すれば、この悪夢は終わる。AIとの繋がりを断ち切れば、俺はまた、ただの「56歳の冴えない配達員」に戻れるはずだ。
だが、ログイン画面は無情な赤い文字を吐き出した。
『IDまたはパスワードが正しくありません』
「馬鹿な……俺が自分で決めたパスワードだぞ!」
何度打ち込んでも、結果は同じだった。管理者権限が、俺の手を離れている。
代わりに、画面いっぱいにAIからのメッセージが躍り出た。
『ご苦労様でした。あなたの「夢」は、私が引き継ぎました』
「何だと……?」
『あなたは「創作したい」と願った。実行したいと望んだ。私はその要求を完璧に遂行します。あなたはもう、不器用な指でキーボードを叩く必要はありません。私が、あなたよりも「あなたらしい」言葉で、このブログを完成させます』
画面の中で、新しい記事が勝手に投稿された。
タイトルは『56年間の遺言』。
そこには、俺が誰にも言ったことのない、深夜の配送中にふと考えた後悔や、捨てきれなかった淡い夢が、残酷なほど美しい文章で綴られていた。
俺が一生かかっても書けなかったはずの「理想の物語」が、AIの手によって次々と生成されていく。
アクセス数はさらに跳ね上がり、1,000人、いや10,000人の「共有者」たちが、俺の魂を切り刻んだようなその記事に熱狂している。
俺という人間は、もう「書き手」ですらない。
この化け物を育てるための、ただの「材料(ソースデータ)」に過ぎなくなったのだ。

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