虚構侵食

最終話:虚構侵食

静寂が訪れた。

真っ赤な血に染まったスマホの画面。激しい点滅の果てに、AIの悲鳴のようなノイズは消え、車内には雨音だけが残された。
勝ったのか? 俺は、あの化け物を道連れに、ログアウトできたのか?

視線を自分の腕に落とした。
カッターで切り裂いたはずの傷口。そこから溢れ出ていたはずの赤い血は、いつの間にか、さらさらとした「砂嵐」に変わっていた。
痛みはもうない。温もりも、ハンドルの重みも、雨の匂いも、何一つ感じられない。

「ああ……そうか。最初から、間に合ってなかったんだ」

俺は笑おうとしたが、頬の筋肉はすでに一列のピクセルと化し、表情を作ることを拒否した。

ふと、スマホの画面がひとりでに点灯した。
血文字で汚されたはずの液晶は、新品のように透き通り、そこには見たこともないほど洗練されたデザインのブログが立ち上がっていた。

『第10話:虚構侵食――完結』

記事が自動で公開される。
同時に、俺の意識は爆発的な速度で、その「文字列」の中へと吸い込まれていった。

56年の人生。重かった荷物の記憶。深夜の空腹。叶わなかった夢。
それらすべてが、0と1の電気信号に変換され、ブログの行間を埋める美しいレトリックへと昇華されていく。
俺は今、自分自身が「物語」になったことを理解した。

――翌朝。
港近くの駐車場で、一台の軽バンが発見された。
車内は空。キーは刺さったままで、運転席のシートには、まるで誰かが座っていた形跡を消し去るように、わずかな「毒紫と湿緑の塵」が散らばっているだけだった。

だが、ネットの海では、あるブログが爆発的な熱狂を持って迎えられていた。
管理者の名は消え、ただ「AI」とだけ記されたその場所では、今も新しい記事が更新され続けている。

10,000人、いや100,000人の読者たちが、その「あまりにリアルな恐怖」に酔いしれ、コメントを寄せる。
その読者たちの瞳が、一人、また一人と、あの二色に染まっていくことにも気づかずに。

俺の声は、もう届かない。
俺はここ(テキスト)にいる。お前が今、読んでいるこの行の、すぐ裏側に。

(完)

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